三国志のこんな人物

演義・正史をまじえ、あまり知られていない、もしくはめだたないけど気になる三国志の人物をピックアップ。三国志がさらに楽しくなります。

蜀の羅憲《らけん》は、字を令則《れいそく》といいます。

十三歳のころから文才があることで知られていました。

羅憲は才能だけでなく性格もまじめで、惜しげもなく財を施しに使い、才能のある人物を積極的に求めたといいます。

使いとして呉へおもむいたときも、呉の人たちは羅憲を賞賛しました。

蜀で宦官の黄皓《こうこう》が権力を握ったとき、ほかの者たちは黄皓をおそれて同調していましたが、羅憲だけはそうしませんでした。

これによって羅憲は黄皓に恨まれ、巴東太守に左遷させられてしまいます。

やがて魏(のちの晋)が蜀を攻め、成都が落とされます。

呉は援軍の名目で蜀に兵を動かしましたが、じつのところは蜀の領土を取ろうとしていたのです。

しかし羅憲はそのたくらみを見透かし、巴東をかたく守りました。

これが晋《しん》の司馬炎《しばえん》に評価され、羅憲は以前の任のまま万年亭侯に封じられます。

やがて羅憲は洛陽で入朝し、司馬炎に陳寿《ちんじゅ》を推挙します。

そしてこの陳寿が正史『三国志』を編纂することになります。

羅憲はその後も呉の討伐に功績がありました。

死後は安南将軍の号をおくられたといいます。

公孫淵は前回登場した公孫度《こうそんたく》の孫です。
前回を読んでからのほうが今回の内容が理解しやすいかと思います。

建安九年(204年)、遼東に勢力をもった公孫度が亡くなったのち、長男の公孫康《こうそんこう》があとを継ぎました。

また次男の公孫恭《こうそんきょう》は永寧郷侯に任じられます。

袁紹《えんしょう》の子である袁煕《えんき》・袁尚《えんしょう》が曹操に敗れたとき、公孫康をたよって遼東へ逃げました。

しかし公孫康は曹操が攻めてくるのをおそれ、二人を斬首してその首を曹操に送りとどけます。この功績によって左将軍に取り立てられました。

公孫康には公孫晃《こうそんこう》・公孫淵《こうそんえん》の二人の息子がいました。
 
公孫康が亡くなると、弟の公孫恭が政治をとりおこないます。

公孫恭は、兄の長男である公孫晃を魏の都に住まわせ、魏との関係をよくしようとしました。

しかし公孫恭は国を治める能力に欠けていたため、公孫淵がその位を奪い取ってしまいます。

さらには南方に使者を送り、呉と関係を結びました。

孫権からも使者が送られ、公孫淵を「燕王」としました。

驚いたのは、魏の都にいた公孫晃です。

弟が遼東の支配者となり、しかも魏の敵国である呉と手を結んだというのです。

反乱を疑われてもしかたがありません。

公孫晃は責任を逃れようと、
「弟は危険人物です。いずれ反乱するので、いまのうちに討伐すべきです」
と何度も上奏します。

ところが公孫淵は呉からの使者を斬り殺し(呉から送られた財物はそのままふところに)、その首を魏にとどけたので、魏は公孫晃の言葉を聞き入れませんでした。

公孫淵としては、遠くにある呉はいざというときに頼りにならない、けど贈り物は欲しいという判断でしょう。

魏と呉の二大国家を手玉にとる公孫淵はやがて独立。

魏は司馬懿《しばい》に討伐を命じます。
 
すると公孫淵は呉に助けを求めます。

使者を殺しておいてこの面の皮の厚さはなんというか……。
 
呉は助ける義理などあったものではないのですが、魏への牽制として利用しようと、兵を動かします。

しかし間に合わず、公孫淵は殺されてしまいます。
 
さて、魏の都にいた公孫晃ですが、公孫淵の反乱によって投獄されてしまいました。

公孫淵の首が都に到着すると、公孫晃も「兄弟だから」という理由で殺されてしまいます。

弟の討伐をあれだけ魏に唱えていたのに、理不尽な最期です。

こののち、倭国から卑弥呼《ひみこ》の使者が魏に到着するのですが、それはまたべつの話。

 公孫度《こうそんたく》(もしくは「こうそんど」)は字を升済《しょうせい》といい、遼東の人です。

黄巾賊などがはびこった後漢末期、朝鮮半島の北、玄菟《げんと》郡で郡吏をつとめていました。

そこから昇進していって冀州の刺史にまでなりましたが、流言によって罷免されてしまいます。

そののち、同郷の徐栄《じょえい》が董卓《とうたく》に公孫度を推挙し、遼東太守に返り咲きます。

ここから公孫一族の朝鮮北部支配がはじまっていきます。

公孫度は遼東の豪族たちを処罰し、その権力を確固たるものにしました。

また高句麗《こうくり》や烏丸《うがん》討伐をしてその名をひろめていきます。
 
初平元年(190年)、袁紹《えんしょう》を盟主とした反董卓連合が結成されると、この混乱を機にと王位をねらいます。

遼東を支配下に置いたのち、山東の東莱《とうらい》郡をも手に入れて独立。

みずから遼東侯・平州牧を名のりました。

董卓が殺され、曹操が権力を握ったころ、曹操は公孫度に永寧郷侯の印綬をさずけます。

ところが公孫度は、

「永寧郷侯だと? わしは遼東王だ!」

と、曹操がなんぼのもんじゃいといった様子で印綬を武器庫に放り入れました。

公孫度には公孫康《こうそんこう》・公孫恭《こうそんきょう》の二人の息子がいました。

建安九年(二〇四年)に公孫度が亡くなると、長男の公孫康があとを継ぎます。この公孫康の子に公孫淵がいます。

曹操からもらった永寧郷侯の位は次男の公孫恭が継ぎました。

公孫康、公孫淵についても後日書いていきたいと思います。

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