歩練師《ほれんし》、孫魯班《そんろはん》とつづいて、つぎは孫魯班の夫・全琮《ぜんそう》です。前回の記事を読んでからのほうが理解しやすいと思います。
全琮は字を子璜《しこう》といいます。
つつしみ深くおごりたかぶらず、相手の気持ちをよく考え、財を惜しまず人にほどこす性格だったといいます。
父の全柔《ぜんじゅう》の命令で米を売りに呉へ行ったときも、呉の人びとの生活が苦しいのを見て、米を無償で分けあたえました。
戦乱を避けて南方に移住した中原の士人たちも全琮を頼る者が多く、全琮は家財を投げうって彼らを助けたといいます。
これによって全琮の名は天下に聞こえるようになりました。
関羽が樊城と城陽を包囲したさい、全琮は「いまこそ関羽討伐をするとき」と孫権に上奏し、計略を述べました。
孫権も関羽討伐計画を立てていたので、事を漏らさないためにこれを却下。
関羽が捕らえられたのち、孫権は全琮に、
「今日の功績はおまえにある」
とたたえ、楊華亭侯に封じました。
そののち、魏の水軍が攻めてきたときもこれを防いだり、陸遜《りくそん》とともに曹休の軍を撃ち破ったりと、将としても大功を立てます。
孫権の跡継ぎとして、孫和《そんか》と孫覇《そんは》が皇太子の座をあらそったときには、全琮は陸遜にこの事態を書簡で伝えました。
陸遜は孫和を推していて、全琮の身内の者が孫覇に組していることを非難したことから、二人の仲が険悪になります。
そもそもこのあらそいの発端は、妻・孫魯班が孫和とその母の王夫人を讒言したことで、孫権の寵愛が孫和から孫覇に移ってしまったからであり、全琮としては孫覇側につかざるを得なくなっているような状況です。
政争のなか、孫和は都から追い出されてしまい、いったん孫覇側の勝利となりますが、そののちに全琮は亡くなってしまいます。
けっきょくケンカ両成敗で孫覇も皇太子にはなれず、幼い孫亮が孫権のあとを継ぎました。
いっぽう全琮の亡きあとは、子の全懌《ぜんえき》があとを継ぎます。
魏で諸葛誕《しょかつたん》の反乱が起こったとき、呉がこれに応じて兵を送ります。
全懌も兵を率いて寿春に向かいましたが、魏軍に包囲されて投降。その後は魏に仕えることになりました。
全琮は字を子璜《しこう》といいます。
つつしみ深くおごりたかぶらず、相手の気持ちをよく考え、財を惜しまず人にほどこす性格だったといいます。
父の全柔《ぜんじゅう》の命令で米を売りに呉へ行ったときも、呉の人びとの生活が苦しいのを見て、米を無償で分けあたえました。
戦乱を避けて南方に移住した中原の士人たちも全琮を頼る者が多く、全琮は家財を投げうって彼らを助けたといいます。
これによって全琮の名は天下に聞こえるようになりました。
関羽が樊城と城陽を包囲したさい、全琮は「いまこそ関羽討伐をするとき」と孫権に上奏し、計略を述べました。
孫権も関羽討伐計画を立てていたので、事を漏らさないためにこれを却下。
関羽が捕らえられたのち、孫権は全琮に、
「今日の功績はおまえにある」
とたたえ、楊華亭侯に封じました。
そののち、魏の水軍が攻めてきたときもこれを防いだり、陸遜《りくそん》とともに曹休の軍を撃ち破ったりと、将としても大功を立てます。
孫権の跡継ぎとして、孫和《そんか》と孫覇《そんは》が皇太子の座をあらそったときには、全琮は陸遜にこの事態を書簡で伝えました。
陸遜は孫和を推していて、全琮の身内の者が孫覇に組していることを非難したことから、二人の仲が険悪になります。
そもそもこのあらそいの発端は、妻・孫魯班が孫和とその母の王夫人を讒言したことで、孫権の寵愛が孫和から孫覇に移ってしまったからであり、全琮としては孫覇側につかざるを得なくなっているような状況です。
政争のなか、孫和は都から追い出されてしまい、いったん孫覇側の勝利となりますが、そののちに全琮は亡くなってしまいます。
けっきょくケンカ両成敗で孫覇も皇太子にはなれず、幼い孫亮が孫権のあとを継ぎました。
いっぽう全琮の亡きあとは、子の全懌《ぜんえき》があとを継ぎます。
魏で諸葛誕《しょかつたん》の反乱が起こったとき、呉がこれに応じて兵を送ります。
全懌も兵を率いて寿春に向かいましたが、魏軍に包囲されて投降。その後は魏に仕えることになりました。