三国志のこんな人物

演義・正史をまじえ、あまり知られていない、もしくはめだたないけど気になる三国志の人物をピックアップ。三国志がさらに楽しくなります。

李厳《りげん》(李平)は字を正方といいます。

若いころから才能があり、劉表に仕えていました。

曹操が荊州に攻めてきたときは、さっさと蜀へ逃げて劉璋《りゅうしょう》に仕えました。

もうこの時点で保身重視の鱗片があらわれているかと思います。

しかしなまじ才能があるせいか、蜀でももてはやされました。
 
さらに蜀に劉備が攻めてきたとき、劉璋は李厳に軍をあたえてこれを防がせました。

ところが李厳はさっさと劉備に降伏。

基本的に保身しか考えていません。

しかしやはり才能があるため、劉備のもとでも重用されます。

あきらかに魏延よりやばいやつなのですが(魏延はあんがい忠誠を尽くしてますが)、諸葛孔明も李厳を気に入っていました。

劉備の死後、孔明はますます李厳を重用します。

出陣のさいには、あとのことをすべて李厳に取り仕切らせました。

また李厳は名を「李平《りへい》」とあらためました。 

さて、問題が起きたのは北伐のとき。

孔明は祁山《きざん》に陣をはり、李平に兵糧などの輸送をまかせました。

ところが長雨のせいで兵糧輸送がとどこおってしまいました。

そのこと自体は仕方ないのですが、そのあとで李平のとった行動はといえば――。

李平は使者を送って事情を説明し、孔明に軍を退くよういいました。

兵糧がない以上、戦闘はつづけられないので妥当な判断です。

孔明は承諾して軍を退いたところ、李平は、
「えっ、なんで撤退したのですか? 兵糧はちゃんと送ってるから足りてるはずでしょう」
と驚いてみせました。

有能な李平は「自分はちゃんと仕事をしていた。なのに孔明が勝手に軍を退いた」と、孔明に責任を押し付けたのです。

しかも李平はぬかりなく、劉禅(りゅうぜん)に、
「退却したのは、きっと敵をおびきよせるための策でしょう(そうでなければ、兵糧を送っていたのに、退却する理由なんてないから)」
と上奏します。

もはやいい加減を通りこしてサイコパス入っている気もします。

ちなみにサイコパスですが、

・口達者。表面は魅力的。
・自己中心。自尊心が過大。
・罪悪感がない。良心の欠如。平気でうそをつく。冷淡で共感がない。
・自分の行動に対して責任がとれない。
・狡猾。人を操ろうとする。

と、ことごとく当てはまるような。

あとサイコパスは有能な人物も多いので、能力を発揮する場所さえ間違えなければ、自分を大きく見せられるという相乗効果でどんどん出世するタイプでもあります。

李平も主を変えながら出世を繰り返しました。

李平が危険人物だということは、前まえから陳震《ちんしん》が孔明に、「正方(李平)は腹のなかにトゲがあるやつで、郷里の人も近づけなかった」と伝えていました。

孔明は李平の能力を優先させ、「トゲぐらいなら避ければよい」と考えていました。

しかし今回の件で、孔明は陳震の言葉を聞かなかったことを後悔します。

腹立たしいことではありますが、孔明は冷静でした。
 
李厳が北伐のさいに送った自筆の手紙を集めて精査し、矛盾点を整理してから劉禅に提出しました。

「兵糧を送った、送ってない」の水掛け論にならないよう、しっかり証拠を準備したのです。

孔明、有能です。

こうして矛盾点を突きつけられた李平はなにもいいかえすことができなくなり、罪を認めました。

孔明は李平のことを上奏します。

「李平は保身と名誉を大切する者です。

漢王室滅亡の危機により、これまで李平を責めることよりも用いることのほうが重要だと思っていましたが、まさかここまででたらめとは思いもしませんでした。

李平の心は名誉と利益の追求にしかありません。このままですと大きなわざわいを招くことになります。爵位を没収するべきです」

こうして李平は平民に落とされてしまいました。

しかし李平は、孔明がいずれ有能な自分を復職させてくれるのではないかと期待していました。

あまり反省していないようです。

そして孔明が亡くなったとき、その後継者では自分を用いてくれないと嘆き、病死してしまいました。

孔明が亡くなったことを悲しんだのではなく、自分の復職が無理になったことを悲しんだあたり、その自己中心さがうかがえます。
 
才能をとるか、信用をとるか。

組織運営のむずかしいところでもあります。

呉で君主を平気で叱りつける口うるさい家臣といえば、張昭《ちょうしょう》を思い浮かべるかと思います。

魏において張昭に当たるのは、崔琰《さいえん》でしょう。

崔琰は字を季珪《りけい》といいます。

儒学者で有名な鄭玄《かんげん》の弟子でした。

しかし学んで一年もしないうちに、黄巾賊の乱が勃発。

鄭玄は弟子たちとともに避難しましたが、食糧不足で弟子を養うことができず、崔琰は退学をいいわたされました。

やがて崔琰は袁紹《えんしょう》に仕えることになります。
 
崔琰は君主に対して遠慮せずに諫言をする人物で、袁紹に対しても、その兵士たちの素行の悪さを挙げて注意をしました。

また官渡のたたかいにおいても、軍を動かさず守りに徹したほうがいいと袁紹に進言しました。
 
しかしこれは受け入れられず、袁紹は曹操に敗れてしまいます。
 
曹操は袁紹の息子たちを破って冀州を手に入れ、崔琰を登用します。

曹操は崔琰にいいました。
「冀州の戸籍を調べたところ、三十万の軍を手に入れられそうだ」

すると崔琰は、
「冀州の民は戦乱によって苦しんでいます。それにもかかわらず、まだ民を安んじたという話は聞いていません。
それどころか、まず兵の数を調べ、ひたすらそれを優先するとは。
それが天下の民があなたに期待したことでしょうか」
と叱りつけました。

まわりの者たちは、曹操をも恐れぬ崔琰の言葉を聞いて、恐怖のあまり顔面蒼白になっていました。
 
しかし曹操は反省し、崔琰に陳謝したのです。

以降、曹操は崔琰を都に置き、息子・曹丕《そうひ》の面倒を見させました。

曹丕は狩り好きで、勉学もせずにしょっちゅう遊びふけっていました。

崔琰はそれを諫めます。

「袁紹の一族は強大でしたが、それが滅びたのはおごりたかぶっていたからであり、その息子たちも遊び惚けて道義も聞かず堕落したからです。

曹操さまはみずから兵たちと辛苦をともにしてたたかってきたのです。

そのお世継ぎならば、国家の大事を忘れ、兎を取ることなどに耽るべきではありません。

どうかこの老臣が天罰を受けないよう、狩りの道具や衣服を捨て、人びとの期待に応えてください」

曹丕もまた曹操と同様に冷酷で傲慢な面のある人物ですが、崔琰に対しては、
「道理を説いてくださりありがとうございます。狩りの道具はすでに捨てました。
またこのようなことがありましたらどうかご指摘ください」
と素直に聞き入れました。

やがて崔琰は尚書となり、魏の人事に尽力しました。

人物評価においては公平無私で清廉。多くの才能ある人材を選び出してきました。

成人したばかりの司馬懿《しばい》を優れた人物だと見抜き、それを司馬懿の兄の司馬朗《しばろう》に伝えたのも崔琰です。

崔琰は容姿に威厳があり、朝臣たちには慕われ、曹操ですら遠慮して尊敬したほどだったといいます。

曹操が後継者を決めなければならなくなったころ、彼は詩にすぐれた曹植を気に入っていました。

そこでどうすべきかを相談すると、崔琰は、

「跡継ぎには年長者を立てるもの。曹丕さまは聡明であられます」

とこたえました。

曹植の妻は、崔琰の兄の娘です。

曹植が跡継ぎになったほうが崔琰にとっては都合がいいのですが、そうしなかった公平さに曹操は感心し、崔琰を昇進させました。

のちに崔琰は讒言によって処罰されます。

しかしそうなってからも堂々とした態度だったので、曹操の機嫌を損ね、やがて自殺させられることになりました。

崔琰の死は惜しまれ、多くの人は「無実の罪で処された」と思っていたといいます。

袁安《えんあん》は字は邵公《しょうこう》といい、袁紹《えんしょう》の祖々々父です。

もはや三国志の時代からだいぶ前の人物ですが、袁紹がスネ夫のごとく、

「ぼくの一族は四代にわたって三公を輩出してきた名門なんだ」

と自慢する理由として紹介しておきます(本当に自慢してたかは知りませんが)。

人名を覚えるより、因果関係を知ったほうが三国志は楽しめると思いますので。

袁安が活躍していた時期は、後漢二代目の天子・明帝のころです。

仏教が伝来し、中国最古の寺ともいわれる洛陽の白馬寺が建立されたのも、このころだといわれています(白馬寺は、日本では北斗神拳発祥の地として知られているようですが)。
 
袁安は学問を好み、祖父について儒学を学んでいました。威厳のある人物だったといいます。

やがて官僚になり、公正無私な政治をおこなったことで名をあげました。
 
明帝の異母兄である楚王・劉英《りゅうえい》が反乱をくわだてて失敗し、封地を取り上げられた翌年、袁安はその楚の地で太守をつとめます。

劉英反乱の余波は大きく、楚郡には連座して投獄させられた者たちが大勢いました。

楚郡にたどり着いた袁安はすぐこの件に着手し、罪が不明瞭な者たち、無実の者たちを調べあげます。

これによって四百人以上もの人たちが救われました。

この功績により袁安は都に呼ばれ、河南尹(河南の長官)になります。

厳格で公正な政治を十年つづけ、皆が認める朝廷の名臣となりました。

明帝が崩御し、章帝《しょうてい》の代になると、袁安は三公の一つ、司空《しくう》に昇進します。次いで司徒《しと》になりました。

三公とは、三つの最高官職です。

時代によって変わるのですが、このころは司徒(行政長)・太尉《たいい》(軍事長)・司空(監察長)です(三公は、のちに曹操が自分に権力を集中させるために廃し、みずから最高位である「丞相《じょうしょう》」につきました)。

さて、袁安には袁敞《えんしょう》という子がいて、司空になります。

また袁安のもう一人の子である袁京《えんきょう》の子・袁湯《えんとう》(袁安の孫)は、司空・司徒・太尉とすべてを歴任しました。

さらに袁湯の子である袁逢《えんほう》(袁術の父)は司空、袁隗《えんかい》(袁紹のおじ)は司徒と、四代で五人の三公を出したことになります。

日本でいえば、三公は総理大臣のようなもので、四代で総理大臣を五人輩出したような感じでしょうか(雑な説明ですが、感覚的にはそんな感じかと)。

自慢したくなるのもわからないでもありません。

袁紹の父といわれる袁成も袁湯の子ですが、袁紹が生まれてまもなく亡くなったといいます。

(まとめ)
1、袁安(司空、司徒)
2、袁敞(司空)
3、袁湯(司空、司徒、太尉)
4、袁逢(司空)、袁隗(司徒)
5、袁紹、袁術

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