万彧《ばんいく》は呉後期の政治家で、呉の滅亡を招いた暴虐の君主・孫晧《そんこう》を推薦し、即位させた人物です。

孫晧は、父・孫和が孫権の後継者候補から外されて自殺したのち、母とともに地方で暮らしていました。

孫休が即位すると、孫晧は鳥程候に封じられて任地へ行きます。

万彧は鳥程の県令(県の長官)で、そのころから孫晧と交友がありました。

孫休が亡くなったとき、蜀も魏(のちに晋)に滅ぼされたころで、呉では有能な君主を求めていました。

孫休の子では魏を相手にたたかうことはできないとして、万彧は丞相の濮陽興《ぼくようこう》(前回出てきた人です)と左将軍の張布に、孫晧を後主に推すようたのみました。

濮陽興たちは孫休の妃・朱氏に伺いを立てて許可をもらい、平和裏に孫晧を帝位に就かせました。

このころの孫晧はまだ聡明でしたが、だんだんと酒や女色におぼれ、粗暴になっていきます。

濮陽興と張布は孫晧を帝位に就けたことを後悔しましたが、万彧はそれを孫晧に告げ口してしまいます。

おそらくは自分が孫晧を推挙した手前、朝廷内で反発が出ることをおそれて保身に走ったのでしょう。

濮陽興たちは孫晧に殺されてしまいます。
 
のちに孫晧が華里へ出かけたとき、万彧は丁奉に、

「今回はとくに急ぎの用事もないのに、華里へ来た。もし陛下が都にもどらないようであれば、国家のため、われわれだけでもさきにもどらなければならない」

と相談しました。

孫晧はこれを知って内心怒り、宴会のときに毒酒を万彧に飲ませました。

ただこのとき、給仕が毒酒の量を減らしたので万彧は死なずにすみましたが、けっきょく万彧は自殺してしまいます。

万彧はある意味、呉滅亡の元凶を招いた張本人ともいえるでしょう。

ただ時世はすでに魏(晋)にあったので、孫晧以外が君主になったとしてもどうにかなるものでもなかったのかもしれません。