黄権はもと劉璋の配下で、劉備軍が攻めてきたときは城をかたく閉ざし、抗戦のかまえを見せました。

しかし劉璋が降伏したのちは、黄権も降伏することとなります。

こののち、蜀が夏侯淵を討って漢中を支配することができたのも、黄権の立てた策によるものといわれています。

関羽の死後、劉備はみずから呉を討伐することを決意しますが、黄権はそれを止め、自分が先陣を切るといいました。

しかし劉備は聞き入れず、黄権を魏への守りとして出陣。そして陸遜に大敗しました。

このとき黄権は蜀にもどることができず、魏に亡命してしまいます。

黄権の息子の黄崇《こうすう》は蜀におり、蜀では「裏切り者の黄権の家族を捕らえるべきではないか」との声があがりましたが、劉備は、

「裏切ったのはわたしだ。黄権が裏切ったのではない」

といって、その家族を以前とおなじ待遇にしました。

黄権はそのまま魏に仕え、蜀にもどることなく亡くなりました。

いっぽうの黄崇は蜀に仕え、魏の鄧艾《とうがい》が攻めてきたときには、諸葛孔明の子である諸葛|瞻《せん》とともにたたかいます。

ところが諸葛瞻は涪《ふ》県に着くと躊躇《ちゅうちょ》して兵を進めなかったので、黄崇は、

「要害をすみやかに占拠して、敵の侵入を防ぐべきです」

と何度も要請しました。

けっきょく聞き入れられず、鄧艾は要害を落として蜀の地に侵入。

黄崇は兵士たちを励ましてさいごまでたたかいぬき、そして戦死しました。

黄崇が蜀のために尽くしたのは、蜀に残された家族を救ってくれた劉備に報いるためだったのかもしれません。