蜀の羅憲《らけん》は、字を令則《れいそく》といいます。

十三歳のころから文才があることで知られていました。

羅憲は才能だけでなく性格もまじめで、惜しげもなく財を施しに使い、才能のある人物を積極的に求めたといいます。

使いとして呉へおもむいたときも、呉の人たちは羅憲を賞賛しました。

蜀で宦官の黄皓《こうこう》が権力を握ったとき、ほかの者たちは黄皓をおそれて同調していましたが、羅憲だけはそうしませんでした。

これによって羅憲は黄皓に恨まれ、巴東太守に左遷させられてしまいます。

やがて魏(のちの晋)が蜀を攻め、成都が落とされます。

呉は援軍の名目で蜀に兵を動かしましたが、じつのところは蜀の領土を取ろうとしていたのです。

しかし羅憲はそのたくらみを見透かし、巴東をかたく守りました。

これが晋《しん》の司馬炎《しばえん》に評価され、羅憲は以前の任のまま万年亭侯に封じられます。

やがて羅憲は洛陽で入朝し、司馬炎に陳寿《ちんじゅ》を推挙します。

そしてこの陳寿が正史『三国志』を編纂することになります。

羅憲はその後も呉の討伐に功績がありました。

死後は安南将軍の号をおくられたといいます。