公孫度《こうそんたく》(もしくは「こうそんど」)は字を升済《しょうせい》といい、遼東の人です。

黄巾賊などがはびこった後漢末期、朝鮮半島の北、玄菟《げんと》郡で郡吏をつとめていました。

そこから昇進していって冀州の刺史にまでなりましたが、流言によって罷免されてしまいます。

そののち、同郷の徐栄《じょえい》が董卓《とうたく》に公孫度を推挙し、遼東太守に返り咲きます。

ここから公孫一族の朝鮮北部支配がはじまっていきます。

公孫度は遼東の豪族たちを処罰し、その権力を確固たるものにしました。

また高句麗《こうくり》や烏丸《うがん》討伐をしてその名をひろめていきます。
 
初平元年(190年)、袁紹《えんしょう》を盟主とした反董卓連合が結成されると、この混乱を機にと王位をねらいます。

遼東を支配下に置いたのち、山東の東莱《とうらい》郡をも手に入れて独立。

みずから遼東侯・平州牧を名のりました。

董卓が殺され、曹操が権力を握ったころ、曹操は公孫度に永寧郷侯の印綬をさずけます。

ところが公孫度は、

「永寧郷侯だと? わしは遼東王だ!」

と、曹操がなんぼのもんじゃいといった様子で印綬を武器庫に放り入れました。

公孫度には公孫康《こうそんこう》・公孫恭《こうそんきょう》の二人の息子がいました。

建安九年(二〇四年)に公孫度が亡くなると、長男の公孫康があとを継ぎます。この公孫康の子に公孫淵がいます。

曹操からもらった永寧郷侯の位は次男の公孫恭が継ぎました。

公孫康、公孫淵についても後日書いていきたいと思います。