陳勰《ちんきょう》(陳協)は字を太和《たいか》といいます。

三国時代の人物ですが三国志には登場せず、その次の時代の晋の史書『晋書』や、地理書『水経注』、宋代の類書『太平御覧』、唐の政書『通典』など各書物にちらほら名前が出てきます(字は『通典』巻二十七)。
 
『水経注』卷十六によれば、陳勰(『水経注』の記述では陳協)は魏の都水使者で、晋の文王(司馬昭)が九龍堰の補修工事をしようとしたときに、阮籍《げんせき》(竹林の七賢のリーダー)が推挙した人物とされています。

その補修工事の手柄で司馬昭に気に入られたようで、『晋書』巻二十四では、魏が蜀を滅ぼしたのち、司馬昭は陳勰に諸葛孔明の軍法を研究するよう命じました。

もとより軍令に通じており、その方面の才能があったようです。

司馬炎が輿に乗って外出するときも、陳勰が白虎旗を持って付きしがたい、その列は整然としていたといいます。
 
孔明の兵法は三国演義の脚色によって神格化された節があり、じっさいはいくさ下手という説までありますが、魏がわざわざ研究させたということは、やはりそれなりにすぐれたものだったのでしょう。

この功績により陳勰は殿中典兵中郎将になり、将軍に移ったといいます。

ただ戦場で活躍したという話はないようで、殿中の護衛官といったところでしょう。

ここで孔明の兵法を使って戦場を駆けめぐっていれば、物語的には面白いことになっていたかもしれません。

余談ですが、「勰」という漢字は日本ではあまり見慣れないかもしれませんが、中国でこの名前はけっこう見かけます(私の知り合いにもいます)。人名でよく使われる漢字です。