王凌《おうりょう》は字を彦雲《げんうん》といいます。

『三国演義』では貂蝉《ちょうせん》の義父だった王允《おういん》の甥にあたります。

王允は董卓《とうたく》の誅殺に成功しますが、そののち、董卓の手下である李傕《りかく》・郭汜《かくし》の反乱にあって殺されてしまいます。

李傕たちは王允の一族をも皆殺しにしようとしました。

当時王凌《おうりょう》はまだ幼く、兄の王晨《おうしん》とともに城を脱出。郷里へと逃げ帰りました。

のちに王凌は推挙されて県長となりますが、なにかの事件にひっかかって五年の刑罰をいいわたされます。

労役のために道路の掃除をしていたところ、曹操の車が通りかかりました。

曹操は王凌が王允の甥だと知ると、罪を許したうえ、自分の属官に抜擢したのです。

王凌は青州の統治をいいわたされます。

青州は法整備もととのっていないので治安も悪く、政治も腐敗しており、少し前までは黄巾賊の残党がはびこっていたような場所です。

しかし王凌は民を教化して見事に治めたため、多くの人たちから感謝されました。

そののち王凌は、統治能力を認められて兗州、豫州などに転任。うまく治め、民たちによろこばれます。

こうして王凌は、淮南地方に大きな権力を持つようになりました。

やがて三公(三つの最高官位)の一つ、司空にまで昇進。司馬懿《しばい》のクーデターによって曹爽《そうそう》が殺されたのちは、三公の一つ、太尉になります。

さて、このころの魏の天子はまだ若い曹芳《そうほう》。

曹爽の死後、朝廷の権力は司馬懿に移っており、もはやただの傀儡でしかありません。
 
王凌は曹芳を廃し、曹操の子である曹彪《そうひょう》を新たな天子に立てようと画策しました。

曹操への恩返しなのか、曹一族の権力復活をもくろんだのです。

王凌は曹彪に使者を送って連絡をとりあい、反乱の機会をうかがいます。

ところが密告によって司馬懿にばれてしまいました。

司馬懿は大軍をひきいて王凌討伐に向かいます。

王凌は勝てないと悟って降伏。都へ送り返される途中、毒を飲んで自殺しました。

ちなみに同年八月、司馬懿は病にかかります。

干宝の『晋紀』によると、司馬懿は、王凌がたたりをなす夢を見て気を病み、やがて亡くなったといいます。