張特《ちょうとく》は字を子産と言います。

劉備《りゅうび》と同じ涿郡《たくぐん》の出身です。

魏の牙門将軍で、諸葛誕《しょかつたん》の配下に所属していました。

諸葛誕は張特を無能だとして追い返そうとしましたが、ちょうど毌丘倹《かんきゅうけん》と任務を交代したため、毌丘倹はそのまま張特を合肥新城の守りに就かせました。

呉の諸葛恪《しょかつかく》(諸葛瑾《しょかつきん》の子)が合肥へ攻めこんできたとき、城を守る張特のもとには三千の兵士がいました。

しかし病や戦死によってその半数は失われ、しかも城は呉軍に包囲されてしまいます。

もはや守りきれないといったときに、張特は呉軍にこう伝えます。

「我々は、これ以上戦う気はありません。魏では百日経過しても援軍が来なかった場合、降伏しても家族は罪に問われません。もう90日が過ぎていますので、しばらくお待ちください」

なんだか企業みたいな規則ですが、呉も物分かりがいいのか攻撃を控えてくれました。

そしてその間に張特は城の補修をし、降伏せずに最後まで城を守り抜きました。

この功績によって張特は列侯に封じられ、安豊太守に昇進したのです。