三国志のこんな人物

演義・正史をまじえ、あまり知られていない、もしくはめだたないけど気になる三国志の人物をピックアップ。三国志がさらに楽しくなります。

2019年02月

トータルウォー版三国志『Total War: THREE KINGDOMS』というゲームで、「Zheng Jiang(おそらく「鄭姜」)」という女賊が登場したので、誰だろうと調べていたときにたどり着きました。

なにかのアイディアになるかもしれないので、ついでに書き記しておきます。

正史『三国志』の魏書・方技伝に、周宣《しゅうせん》という人物が登場します。

字は孔和といい、占いの名人です。

東平に劉楨《りゅうてい》という人物がいて、四本の足の生えた蛇が門に穴を掘って住みついているという夢を見ました。

これを周宣に占わせたところ、「女子で反乱を起こす者がいて、誅殺されるでしょう」と答えました。

しばらく経ってから、鄭《てい》と姜《きょう》という女盗賊たちが討ち取られました。

蛇は女子を象徴するもので、足は蛇にあってはならないものなので、このように占ったのでしょう。

ゲームに登場したことで、急に脚光を浴びそうな予感がします。

韋昭《いしょう》は韋曜《いよう》ともいいます。字は弘嗣《こうし》。

若いときから学問に秀で、太子中庶子として皇太子・孫和に仕えました。

孫和は部下がばくちに夢中になるのを諫めるため、韋昭にばくち批判論である『博奕論』を書かせました。

ところで当時、孫権は孫和以外にも孫覇《そんは》を優遇し、皇太子のような待遇をあたえていました。

このことから朝廷は孫和派と孫覇派に二分され、内部分裂にまで発展する状況でした(二宮事件)。

結局孫権は両者とも跡継ぎにはせず、孫和を幽閉、孫覇には自害を命じ、孫亮を皇太子に立てることになりました。

孫亮の代では、韋昭は『呉書』の編纂を担当。これが陳寿の正史『三国志』呉書のもとになります。

孫晧の代になると、韋昭はその実直な言動から次第に冷遇されるようになります。

やがて投獄され、呉書の完成を待たずして処刑されてしまいました。

李恢《りかい》は字を徳昂《とくこう》といい、建寧の人です。

劉備《りゅうび》が劉璋《りゅうしょう》を攻撃したとき、李恢は劉備の勝利を確信し、その元へと赴きました。

劉備は李恢に馬超を味方にするよう命じられ、これを見事こなして信頼を得ます。

反乱を疑われたときも劉備は信じず、事実をはっきりさせたうえで、別駕従事に昇進させました。

諸葛亮が南方平定へ向かったさいには従軍し、大きな功績を残します。

以来、南方で反乱があったときには李恢が赴いて鎮圧し、蛮族たちに金銀などを納入させました。
蜀を陰で支えた功労者ともいえます。

建興9年(231年)、漢中で病死しました。

李恢の息子は李遺(李蔚)といいます。

民間伝承では関羽の娘・関銀屏(関三小姐)の夫となっています。

尹黙《いんもく》は字を思潜《しせん》といいます。

益州の人ですが、地元では今文を尊重し、字句の正確な読みが重視されなかったため、荊州へ遊学して司馬徽《しばき》などについて古文を学んでいました。

すべての経書・史書に深く通じ、暗記して調べなおすことがなかったといいます。

とくに『春秋左氏伝』を深く研究していました。

劉備が蜀を平定したのちは、勧学従事に任命されました。

また劉禅の教育係とし、『春秋左氏伝』を教えさせました。

劉備が亡くなり、劉禅が即位すると諫義大夫に任じられます。

諸葛亮が漢中に駐屯していたときには、要請されて軍祭酒に任命されました。

諸葛亮亡き後は成都に帰還。やがて亡くなります。

その学問は子の尹宗が継ぎ、尹宗は博士となっています。

李譔《りせん》は字を欽仲《きんちゅう》といいます。

昨日紹介した尹黙《いんもく》とは同郷です。

父の李仁《りじん》は尹黙の友人で、ともに荊州の司馬徽《しばき》のもとで学んでいました。

李譔は父の学問を受け継ぎ、さらに尹黙について書物を研究しました。

経書だけでなく算術や占い、医学、兵器まで、その興味は多岐にわたっていたとのことです。

劉禅が劉璿《りゅうせん》を太子に立てたときには、その近侍として仕えます。

劉璿は、幅広い知識を持つ李譔を大変気に入っていました。

しかし李譔は悪ふざけ好きの軽い性格だったので、才能はあったのですが世間では重んじられなかったようです。

景耀年間(258年~263年)に亡くなりました。

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