三国志のこんな人物

演義・正史をまじえ、あまり知られていない、もしくはめだたないけど気になる三国志の人物をピックアップ。三国志がさらに楽しくなります。

2019年04月

濮陽興《ぼくようこう》は後期の呉の丞相です。

字は子元《しげん》。孫権の代から仕えていました。

丞相というのは、いってみれば総理大臣のようなものなので、有名人であってしかるべき人物なのですが、いまひとつ影が薄い。

ちなみに姓が濮陽、名が興です。

濮陽興の父・濮陽逸《ぼくよういつ》は貧しかったので、陸遜の弟である陸瑁《りくぼう》の世話になっていました。

やがて長沙の太守にまで出世します。

濮陽興は若いころから評判が高く、孫権に認められて仕官し、昇進して会稽《かいけい》の太守になります。

このころ孫権の六男・孫休《そんきゅう》と交流がありました。

やがて孫休が呉の天子として即位すると、孫休は濮陽興を呼び寄せて外黄侯に封じ、政治・軍事全般をまかせました。

それで濮陽興は有能だったかといえば微妙なところ。

丹楊で干拓事業をすべきかどうかという議論のさいに、皆が、

「労力がかかるだけなのでやるだけ無駄」

という意見だったところを、濮陽興だけが、

「ぜったいできる!」

といい張りました。

けっきょく濮陽興の意見が採用され、兵士や民を動員してやってみたところ、莫大な費用と労力がかかり、死亡者や自殺者まで出る始末。

多くの者が濮陽興を恨みました。

そんな濮陽興ですが、立ちまわりが上手かったのか、なぜか丞相にまで昇進。

孫休が亡くなったのちは、孫休の嫡子が頼りにならないということで、同僚の張布とともに孫和の子の孫皓《そんこう》を天子に即位させます。

ところがこの孫晧、天子になった当時は聡明であったのに、しだいに暴君へと変わっていきます。
さらに万彧《ばんいく》が、

「濮陽興と張布が陛下を即位させたことを後悔しています」

と孫晧に告げ口したことから、濮陽興たちは捕らえられて流刑。

孫晧は使者を送って流刑途中の濮陽興たちを殺し、その一族をも根絶やしにしました。

正史における濮陽興の評価ですが、

「濮陽興は政治に力を入れず、張布と悪行を働いていたので、一族皆殺しにされても当然」

と辛らつなコメントを書かれています。

超人的な人物の多い三国志の中で、悪人に徹しきれたわけでもなく、会社の上司にふつうにいそうな人間っぽさが濮陽興にはあるかと思います。

万彧《ばんいく》は呉後期の政治家で、呉の滅亡を招いた暴虐の君主・孫晧《そんこう》を推薦し、即位させた人物です。

孫晧は、父・孫和が孫権の後継者候補から外されて自殺したのち、母とともに地方で暮らしていました。

孫休が即位すると、孫晧は鳥程候に封じられて任地へ行きます。

万彧は鳥程の県令(県の長官)で、そのころから孫晧と交友がありました。

孫休が亡くなったとき、蜀も魏(のちに晋)に滅ぼされたころで、呉では有能な君主を求めていました。

孫休の子では魏を相手にたたかうことはできないとして、万彧は丞相の濮陽興《ぼくようこう》(前回出てきた人です)と左将軍の張布に、孫晧を後主に推すようたのみました。

濮陽興たちは孫休の妃・朱氏に伺いを立てて許可をもらい、平和裏に孫晧を帝位に就かせました。

このころの孫晧はまだ聡明でしたが、だんだんと酒や女色におぼれ、粗暴になっていきます。

濮陽興と張布は孫晧を帝位に就けたことを後悔しましたが、万彧はそれを孫晧に告げ口してしまいます。

おそらくは自分が孫晧を推挙した手前、朝廷内で反発が出ることをおそれて保身に走ったのでしょう。

濮陽興たちは孫晧に殺されてしまいます。
 
のちに孫晧が華里へ出かけたとき、万彧は丁奉に、

「今回はとくに急ぎの用事もないのに、華里へ来た。もし陛下が都にもどらないようであれば、国家のため、われわれだけでもさきにもどらなければならない」

と相談しました。

孫晧はこれを知って内心怒り、宴会のときに毒酒を万彧に飲ませました。

ただこのとき、給仕が毒酒の量を減らしたので万彧は死なずにすみましたが、けっきょく万彧は自殺してしまいます。

万彧はある意味、呉滅亡の元凶を招いた張本人ともいえるでしょう。

ただ時世はすでに魏(晋)にあったので、孫晧以外が君主になったとしてもどうにかなるものでもなかったのかもしれません。

個人的に好きな武将に、蜀の傅僉《ふせん》がいます。

父の傅彤《ふとう》は夷陵のたたかいにおいて、呉の陸遜《りくそん》に敗れた劉備が退却をするときに、そのしんがりをつとめました。

呉から降伏するよういわれても聞き入れず、さいごまでたたかいぬいて亡くなりました。

その子の傅僉ですが、魏の鍾会《しょうかい》が攻めてきたとき、蒋舒《しょうじょ》とともに陽安関の守りにつきました。

傅僉は城を守りぬくつもりでいたのですが、蒋舒が出撃してしまい、しかも敵に投降してしまいます。

これによって傅僉は魏軍に敗れ、戦死しました。

この親子二代の忠義は後世でも称えられることになります。

それもあってか、『三国演義』においては脚色も加えられ、傅僉はかなり格好よく描かれています。

演義では姜維とともに北伐して大活躍。鄧艾《とうがい》をも打ち破ります。

さらに魏軍が蜀に攻めてきたときは、蒋舒が止めるのも聞かずに城からうってでました(ここは正史とは逆)。

蒋舒が降伏したことによって城は取られましたが、傅僉は降伏せず、

「死して蜀の鬼とならん」

との言葉とともに自刎します。

忠義の士を活躍させてやりたいという思いが演義ではあったのかもしれませんね。

黄権はもと劉璋の配下で、劉備軍が攻めてきたときは城をかたく閉ざし、抗戦のかまえを見せました。

しかし劉璋が降伏したのちは、黄権も降伏することとなります。

こののち、蜀が夏侯淵を討って漢中を支配することができたのも、黄権の立てた策によるものといわれています。

関羽の死後、劉備はみずから呉を討伐することを決意しますが、黄権はそれを止め、自分が先陣を切るといいました。

しかし劉備は聞き入れず、黄権を魏への守りとして出陣。そして陸遜に大敗しました。

このとき黄権は蜀にもどることができず、魏に亡命してしまいます。

黄権の息子の黄崇《こうすう》は蜀におり、蜀では「裏切り者の黄権の家族を捕らえるべきではないか」との声があがりましたが、劉備は、

「裏切ったのはわたしだ。黄権が裏切ったのではない」

といって、その家族を以前とおなじ待遇にしました。

黄権はそのまま魏に仕え、蜀にもどることなく亡くなりました。

いっぽうの黄崇は蜀に仕え、魏の鄧艾《とうがい》が攻めてきたときには、諸葛孔明の子である諸葛|瞻《せん》とともにたたかいます。

ところが諸葛瞻は涪《ふ》県に着くと躊躇《ちゅうちょ》して兵を進めなかったので、黄崇は、

「要害をすみやかに占拠して、敵の侵入を防ぐべきです」

と何度も要請しました。

けっきょく聞き入れられず、鄧艾は要害を落として蜀の地に侵入。

黄崇は兵士たちを励ましてさいごまでたたかいぬき、そして戦死しました。

黄崇が蜀のために尽くしたのは、蜀に残された家族を救ってくれた劉備に報いるためだったのかもしれません。

廖立《りょうりつ》は字を公淵《こうえん》といいます。

三十歳のとき、劉備に長沙太守に抜擢されました。

呉の孫権が荊州にいる諸葛孔明に友好の使者を送って、「政治に役立つ者はだれか」とたずねたとき、孔明は、

「龐統《ほうとう》と廖立です」

と答えました。

なんと孔明から、孔明と並び称される軍師、龐統と同列あつかいされたのです。

ここで調子に乗ってしまったのかもしれません。

こののち呉との関係が悪化し、長沙が攻められたとき、廖立は蜀へ逃げます。

劉備は廖立を重視していたので、とくに咎めることはありませんでした。

のちに劉禅が即位すると、廖立は長水校尉に移されます。高級武官の一つですが、廖立は不満に思っていました。

「自分は諸葛孔明のつぎに才能のある者だ。こんな位にとどまるのはおかしい」

との自負心がありました。

さらには蒋琬《しょうえん》がやってきたときには、関羽や向朗などのをつぎつぎと批判。

これが孔明の耳に入ります。

孔明は劉禅に、

「廖立は尊大で、万人を率いる大将たちを小物と決めつけ、多くの者の名誉を傷つけました。彼は高い位にいるため、並みの人たちはその言葉の真偽を判断できません」

と上奏しました。

これによって廖立は庶民に落とされてしまったのです。

のちに姜維《きょうい》が廖立に会ったときも、昔のままで言動は衰えていなかったとか。

才能はあったのかもしれませんが、おごりたかぶったり他人を貶《けな》したりなどの性格はいつの時代もわざわいを招くものといえそうです。

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