三国志のこんな人物

演義・正史をまじえ、あまり知られていない、もしくはめだたないけど気になる三国志の人物をピックアップ。三国志がさらに楽しくなります。

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濮陽興《ぼくようこう》は後期の呉の丞相です。

字は子元《しげん》。孫権の代から仕えていました。

丞相というのは、いってみれば総理大臣のようなものなので、有名人であってしかるべき人物なのですが、いまひとつ影が薄い。

ちなみに姓が濮陽、名が興です。

濮陽興の父・濮陽逸《ぼくよういつ》は貧しかったので、陸遜の弟である陸瑁《りくぼう》の世話になっていました。

やがて長沙の太守にまで出世します。

濮陽興は若いころから評判が高く、孫権に認められて仕官し、昇進して会稽《かいけい》の太守になります。

このころ孫権の六男・孫休《そんきゅう》と交流がありました。

やがて孫休が呉の天子として即位すると、孫休は濮陽興を呼び寄せて外黄侯に封じ、政治・軍事全般をまかせました。

それで濮陽興は有能だったかといえば微妙なところ。

丹楊で干拓事業をすべきかどうかという議論のさいに、皆が、

「労力がかかるだけなのでやるだけ無駄」

という意見だったところを、濮陽興だけが、

「ぜったいできる!」

といい張りました。

けっきょく濮陽興の意見が採用され、兵士や民を動員してやってみたところ、莫大な費用と労力がかかり、死亡者や自殺者まで出る始末。

多くの者が濮陽興を恨みました。

そんな濮陽興ですが、立ちまわりが上手かったのか、なぜか丞相にまで昇進。

孫休が亡くなったのちは、孫休の嫡子が頼りにならないということで、同僚の張布とともに孫和の子の孫皓《そんこう》を天子に即位させます。

ところがこの孫晧、天子になった当時は聡明であったのに、しだいに暴君へと変わっていきます。
さらに万彧《ばんいく》が、

「濮陽興と張布が陛下を即位させたことを後悔しています」

と孫晧に告げ口したことから、濮陽興たちは捕らえられて流刑。

孫晧は使者を送って流刑途中の濮陽興たちを殺し、その一族をも根絶やしにしました。

正史における濮陽興の評価ですが、

「濮陽興は政治に力を入れず、張布と悪行を働いていたので、一族皆殺しにされても当然」

と辛らつなコメントを書かれています。

超人的な人物の多い三国志の中で、悪人に徹しきれたわけでもなく、会社の上司にふつうにいそうな人間っぽさが濮陽興にはあるかと思います。

万彧《ばんいく》は呉後期の政治家で、呉の滅亡を招いた暴虐の君主・孫晧《そんこう》を推薦し、即位させた人物です。

孫晧は、父・孫和が孫権の後継者候補から外されて自殺したのち、母とともに地方で暮らしていました。

孫休が即位すると、孫晧は鳥程候に封じられて任地へ行きます。

万彧は鳥程の県令(県の長官)で、そのころから孫晧と交友がありました。

孫休が亡くなったとき、蜀も魏(のちに晋)に滅ぼされたころで、呉では有能な君主を求めていました。

孫休の子では魏を相手にたたかうことはできないとして、万彧は丞相の濮陽興《ぼくようこう》(前回出てきた人です)と左将軍の張布に、孫晧を後主に推すようたのみました。

濮陽興たちは孫休の妃・朱氏に伺いを立てて許可をもらい、平和裏に孫晧を帝位に就かせました。

このころの孫晧はまだ聡明でしたが、だんだんと酒や女色におぼれ、粗暴になっていきます。

濮陽興と張布は孫晧を帝位に就けたことを後悔しましたが、万彧はそれを孫晧に告げ口してしまいます。

おそらくは自分が孫晧を推挙した手前、朝廷内で反発が出ることをおそれて保身に走ったのでしょう。

濮陽興たちは孫晧に殺されてしまいます。
 
のちに孫晧が華里へ出かけたとき、万彧は丁奉に、

「今回はとくに急ぎの用事もないのに、華里へ来た。もし陛下が都にもどらないようであれば、国家のため、われわれだけでもさきにもどらなければならない」

と相談しました。

孫晧はこれを知って内心怒り、宴会のときに毒酒を万彧に飲ませました。

ただこのとき、給仕が毒酒の量を減らしたので万彧は死なずにすみましたが、けっきょく万彧は自殺してしまいます。

万彧はある意味、呉滅亡の元凶を招いた張本人ともいえるでしょう。

ただ時世はすでに魏(晋)にあったので、孫晧以外が君主になったとしてもどうにかなるものでもなかったのかもしれません。

歩練師《ほれんし》、孫魯班《そんろはん》とつづいて、つぎは孫魯班の夫・全琮《ぜんそう》です。前回の記事を読んでからのほうが理解しやすいと思います。

全琮は字を子璜《しこう》といいます。

つつしみ深くおごりたかぶらず、相手の気持ちをよく考え、財を惜しまず人にほどこす性格だったといいます。

父の全柔《ぜんじゅう》の命令で米を売りに呉へ行ったときも、呉の人びとの生活が苦しいのを見て、米を無償で分けあたえました。

戦乱を避けて南方に移住した中原の士人たちも全琮を頼る者が多く、全琮は家財を投げうって彼らを助けたといいます。

これによって全琮の名は天下に聞こえるようになりました。
 
関羽が樊城と城陽を包囲したさい、全琮は「いまこそ関羽討伐をするとき」と孫権に上奏し、計略を述べました。

孫権も関羽討伐計画を立てていたので、事を漏らさないためにこれを却下。

関羽が捕らえられたのち、孫権は全琮に、
「今日の功績はおまえにある」
とたたえ、楊華亭侯に封じました。
 
そののち、魏の水軍が攻めてきたときもこれを防いだり、陸遜《りくそん》とともに曹休の軍を撃ち破ったりと、将としても大功を立てます。

孫権の跡継ぎとして、孫和《そんか》と孫覇《そんは》が皇太子の座をあらそったときには、全琮は陸遜にこの事態を書簡で伝えました。

陸遜は孫和を推していて、全琮の身内の者が孫覇に組していることを非難したことから、二人の仲が険悪になります。

そもそもこのあらそいの発端は、妻・孫魯班が孫和とその母の王夫人を讒言したことで、孫権の寵愛が孫和から孫覇に移ってしまったからであり、全琮としては孫覇側につかざるを得なくなっているような状況です。

政争のなか、孫和は都から追い出されてしまい、いったん孫覇側の勝利となりますが、そののちに全琮は亡くなってしまいます。

けっきょくケンカ両成敗で孫覇も皇太子にはなれず、幼い孫亮が孫権のあとを継ぎました。

いっぽう全琮の亡きあとは、子の全懌《ぜんえき》があとを継ぎます。

魏で諸葛誕《しょかつたん》の反乱が起こったとき、呉がこれに応じて兵を送ります。

全懌も兵を率いて寿春に向かいましたが、魏軍に包囲されて投降。その後は魏に仕えることになりました。

孫魯班《そんろはん》は字を大虎といい、孫権の側室である歩夫人(歩練師《ほれんし》)の娘です。

妹は孫魯育《そんろいく》、字を小虎といいます。

前回の歩練師の記事を読んでからのほうが内容が理解しやすいかと思います。
 
孫魯班は最初周瑜《しゅうゆ》の長男・周循《しゅうじゅん》に嫁ぎました。

しかし周循は早くに亡くなってしまい、そののち全琮《ぜんそう》に嫁ぎます。このことから「全公主」とも呼ばれます。
 
母の死後、孫権から母の次に寵愛を受けていた王夫人が皇后に立てられることになりました。さらに王夫人の子・孫和《そんか》が皇太子に立てられます。

孫魯班は王夫人をきらっていたので、母子ともども陥れようと、父・孫権に悪口を吹きこんでいきます。

ここから孫魯班の謀略人生がはじまります。

孫権が病の床についたとき、孫和は父の病が治ることを願って宗廟で祈祷をしました。

その宗廟の近くに孫和の妃のおじ・張休《ちょうきゅう》が住んでいて、招かれたのでちょっと立ち寄ったのですが、それを知った孫魯班は、

「皇太子は宗廟に籠りもせず、妃の実家に行って謀略を協議しています。
 その母である王夫人も、陛下が病床についたのを見て嬉しそうな顔をしていました」

と嘘の報告をしました。

これによって孫権は王夫人をきらうようになり、王夫人は悲しみのあまり亡くなったといいます。

また孫権は孫和を寵愛することもなくなり、代わりに孫覇《そんは》を寵愛するようになりました。

陸遜《りくそん》は孫和を推していたので、それに対立する者たちが孫覇に付きました。

こうして呉は、朝廷をも巻きこんだ孫和と孫覇の皇太子争いがはじまります。

当然孫魯班は孫覇派。あの手この手で孫和派の重臣たちを陥れ、孫和を皇太子の座からひきずりおろそうとします。

孫魯班のもくろみは成功し、孫権は孫和を都から追い出します。

またこのとき多くの者が讒言によって誅殺されたり都を追われたりしました。

ところが孫和と孫覇の対立のさなか、孫魯班は父の寵愛が幼い七男の孫亮《そんりょう》に向いていることに気づきました。

そこで孫亮に取り入ることにします。

夫の親族の全尚《ぜんしょう》の娘を褒め、孫亮の妃にします。
 
孫和と孫覇の争いは、最終的にはケンカ両成敗ということでどちらも候補からはずれ、まだ幼い孫亮が皇太子に立てられました。

孫権が亡くなり、孫亮が天子の位につくと、もくろみどおり孫魯班は権力を得ることができました。

密通していた孫峻《そんしゅん》が朝廷を掌握すると、孫魯班の権力はさらに大きなものとなっていきます。

孫儀《そんぎ》が孫峻を暗殺しようとして失敗したとき、孫魯班は妹の孫魯育が孫和を廃することに否定的だったことを恨んでいたため、これを機にと、
「妹も暗殺計画に加わっていました」
と讒言します。

こうして孫魯育は処刑されてしまいました。

妹までをも讒言によって殺してしまったのです。

ところがこの件は、孫亮が知るところとなります。

「なぜ罪のない孫魯育が死ぬことになったのか」

と問うたところ、孫魯班は怖れ、また孫和派であった朱拠《しゅきょ》の二人の息子、朱熊《しゅゆう》・朱損《しゅそん》が兵をあずかる身だったので、

「じつをいえば、わたしはよく知らなかったのです。すべては朱熊・朱損が申したことです」

とまた讒言をします。

こうして朱熊・朱損は処刑されてしまいました。

孫魯班としては、政敵の息子たちをも始末できて一挙両得といったところでしょう。

まさに謀略につぐ謀略の人生です。

朝敵を排除しつづけ、孫峻とともに呉で権力を握った孫魯班ですが、おごれる者も久しからず、やがておわりの時がおとずれます。
 
孫峻が亡くなると、朝廷の権力がそのいとこの孫綝《そんちん》に移ります。
 
孫綝が専横をはじめたので、孫亮は孫魯班とともに孫綝の暗殺をもくろみます。

が、事前に露見してしまいました。

こうして孫亮は廃帝。孫綝によって孫亮の兄・孫休が天子になります。

孫魯班は豫章に流され、権力を失いました。
 
殺されなかっただけましといったところでしょう。

悪女としての評価がありますが、一歩間違えれば自分が殺されるといった朝廷の中で、讒言と謀略によってうまく立ちまわってきたともいえます。

中国史においても、権力を持った女性というのは、保身のために周囲に対してきびしくしつづけないと自分が生き残れません。

仕方ないといえば仕方なかったのかもしれません。

歩練師《ほれんし》は孫権の側室で、歩隲《ほしつ》と同族です。

ちなみに「練師」の諱ですが、唐代の許嵩《きょすう》が記した六朝の歴史『建康実録』巻二に出てきます。

正史三国志においては「歩夫人」「歩皇后」で知られています。

容貌が美しかったことから孫権に見初められ、後宮でもっとも寵愛を受けていました。

後宮といえば女性たちの嫉妬や陰謀がうずまく場所でもありますが、歩夫人は性格がよく他の後宮の女性たちを助けたりしていたので、孫権をはじめ多くの者たちに慕われていました。

孫権が呉王になると、歩夫人を皇后にしようとします。

しかし徐琨《じょこん》の娘である徐夫人を群臣たちが推していたので、決められないまま時がすぎていきました。

徐夫人は、歩夫人とちがって嫉妬深い性格だったといいます。

宮中ではやはり歩夫人のほうが人気がありました。まだ皇后でないにもかかわらず、宮中の者たちは歩夫人を「皇后」と呼んでいました。

そして歩夫人は亡くなったのち、孫権の意向によって正式に皇后の位が送られたといいます。

ところで歩夫人には、孫魯班《そんろはん》・孫魯育《そんろいく》という二人の娘がいました。

姉の孫魯班のほうは母に似ず強い権力欲があり、奸計をつかって多くの者を陥れ、妹の孫魯育までをも誣告によって殺してしまいます。

この姉妹の話はまた後日に。

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