三国志のこんな人物

演義・正史をまじえ、あまり知られていない、もしくはめだたないけど気になる三国志の人物をピックアップ。三国志がさらに楽しくなります。

カテゴリ: か行

黄権はもと劉璋の配下で、劉備軍が攻めてきたときは城をかたく閉ざし、抗戦のかまえを見せました。

しかし劉璋が降伏したのちは、黄権も降伏することとなります。

こののち、蜀が夏侯淵を討って漢中を支配することができたのも、黄権の立てた策によるものといわれています。

関羽の死後、劉備はみずから呉を討伐することを決意しますが、黄権はそれを止め、自分が先陣を切るといいました。

しかし劉備は聞き入れず、黄権を魏への守りとして出陣。そして陸遜に大敗しました。

このとき黄権は蜀にもどることができず、魏に亡命してしまいます。

黄権の息子の黄崇《こうすう》は蜀におり、蜀では「裏切り者の黄権の家族を捕らえるべきではないか」との声があがりましたが、劉備は、

「裏切ったのはわたしだ。黄権が裏切ったのではない」

といって、その家族を以前とおなじ待遇にしました。

黄権はそのまま魏に仕え、蜀にもどることなく亡くなりました。

いっぽうの黄崇は蜀に仕え、魏の鄧艾《とうがい》が攻めてきたときには、諸葛孔明の子である諸葛|瞻《せん》とともにたたかいます。

ところが諸葛瞻は涪《ふ》県に着くと躊躇《ちゅうちょ》して兵を進めなかったので、黄崇は、

「要害をすみやかに占拠して、敵の侵入を防ぐべきです」

と何度も要請しました。

けっきょく聞き入れられず、鄧艾は要害を落として蜀の地に侵入。

黄崇は兵士たちを励ましてさいごまでたたかいぬき、そして戦死しました。

黄崇が蜀のために尽くしたのは、蜀に残された家族を救ってくれた劉備に報いるためだったのかもしれません。

公孫淵は前回登場した公孫度《こうそんたく》の孫です。
前回を読んでからのほうが今回の内容が理解しやすいかと思います。

建安九年(204年)、遼東に勢力をもった公孫度が亡くなったのち、長男の公孫康《こうそんこう》があとを継ぎました。

また次男の公孫恭《こうそんきょう》は永寧郷侯に任じられます。

袁紹《えんしょう》の子である袁煕《えんき》・袁尚《えんしょう》が曹操に敗れたとき、公孫康をたよって遼東へ逃げました。

しかし公孫康は曹操が攻めてくるのをおそれ、二人を斬首してその首を曹操に送りとどけます。この功績によって左将軍に取り立てられました。

公孫康には公孫晃《こうそんこう》・公孫淵《こうそんえん》の二人の息子がいました。
 
公孫康が亡くなると、弟の公孫恭が政治をとりおこないます。

公孫恭は、兄の長男である公孫晃を魏の都に住まわせ、魏との関係をよくしようとしました。

しかし公孫恭は国を治める能力に欠けていたため、公孫淵がその位を奪い取ってしまいます。

さらには南方に使者を送り、呉と関係を結びました。

孫権からも使者が送られ、公孫淵を「燕王」としました。

驚いたのは、魏の都にいた公孫晃です。

弟が遼東の支配者となり、しかも魏の敵国である呉と手を結んだというのです。

反乱を疑われてもしかたがありません。

公孫晃は責任を逃れようと、
「弟は危険人物です。いずれ反乱するので、いまのうちに討伐すべきです」
と何度も上奏します。

ところが公孫淵は呉からの使者を斬り殺し(呉から送られた財物はそのままふところに)、その首を魏にとどけたので、魏は公孫晃の言葉を聞き入れませんでした。

公孫淵としては、遠くにある呉はいざというときに頼りにならない、けど贈り物は欲しいという判断でしょう。

魏と呉の二大国家を手玉にとる公孫淵はやがて独立。

魏は司馬懿《しばい》に討伐を命じます。
 
すると公孫淵は呉に助けを求めます。

使者を殺しておいてこの面の皮の厚さはなんというか……。
 
呉は助ける義理などあったものではないのですが、魏への牽制として利用しようと、兵を動かします。

しかし間に合わず、公孫淵は殺されてしまいます。
 
さて、魏の都にいた公孫晃ですが、公孫淵の反乱によって投獄されてしまいました。

公孫淵の首が都に到着すると、公孫晃も「兄弟だから」という理由で殺されてしまいます。

弟の討伐をあれだけ魏に唱えていたのに、理不尽な最期です。

こののち、倭国から卑弥呼《ひみこ》の使者が魏に到着するのですが、それはまたべつの話。

 公孫度《こうそんたく》(もしくは「こうそんど」)は字を升済《しょうせい》といい、遼東の人です。

黄巾賊などがはびこった後漢末期、朝鮮半島の北、玄菟《げんと》郡で郡吏をつとめていました。

そこから昇進していって冀州の刺史にまでなりましたが、流言によって罷免されてしまいます。

そののち、同郷の徐栄《じょえい》が董卓《とうたく》に公孫度を推挙し、遼東太守に返り咲きます。

ここから公孫一族の朝鮮北部支配がはじまっていきます。

公孫度は遼東の豪族たちを処罰し、その権力を確固たるものにしました。

また高句麗《こうくり》や烏丸《うがん》討伐をしてその名をひろめていきます。
 
初平元年(190年)、袁紹《えんしょう》を盟主とした反董卓連合が結成されると、この混乱を機にと王位をねらいます。

遼東を支配下に置いたのち、山東の東莱《とうらい》郡をも手に入れて独立。

みずから遼東侯・平州牧を名のりました。

董卓が殺され、曹操が権力を握ったころ、曹操は公孫度に永寧郷侯の印綬をさずけます。

ところが公孫度は、

「永寧郷侯だと? わしは遼東王だ!」

と、曹操がなんぼのもんじゃいといった様子で印綬を武器庫に放り入れました。

公孫度には公孫康《こうそんこう》・公孫恭《こうそんきょう》の二人の息子がいました。

建安九年(二〇四年)に公孫度が亡くなると、長男の公孫康があとを継ぎます。この公孫康の子に公孫淵がいます。

曹操からもらった永寧郷侯の位は次男の公孫恭が継ぎました。

公孫康、公孫淵についても後日書いていきたいと思います。

前回、北宮伯玉《ほっきょくはくぎょく》を書いたので、ついでに韓遂《かんすい》を。

韓遂は字を文約《ぶんやく》といいます。

もとは韓約という名前でしたが、涼州で反乱を起こした北宮伯玉に協力したことで賞金首になり、名を韓遂に変えました。

そののち北宮伯玉らを殺して軍を掌握。ここまでは前回書いたので割愛します。

北宮伯玉ら亡きあと、韓遂は馬騰《ばとう》(馬超の父)と組んで西涼を荒らしまわりましたが、朝廷の派遣した董卓《とうたく》らの軍によって鎮圧されてしまいます。

この功績によって董卓は朝廷で権力を握り、献帝を擁して恐怖政治をおこないました。

董卓が殺されたのち、李傕《りかく》と郭汜《かくし》が代わって実権を握ると、韓遂・馬騰は最初のうちは従っていましたが、やがて馬騰が離反し、韓遂もこれに加わります。

しかし韓遂は馬騰と仲たがいし、たがいに攻撃しあったことで西涼はさらに渾沌とした状況になってしまいました。

ここで曹操が仲裁に入り、両者のたたかいはおさまります。

馬騰は入朝して曹操に仕え、その軍は息子の馬超に引き継がれました。

曹操が張魯《ちょうろ》を攻めようとしたとき、韓遂は自分も攻撃されるのではないかと恐れ、馬超と手を組んで曹操に対抗します。

しかし軍師・賈詡《かく》の離間の計によって馬超と仲たがいし(仲たがいばっかりですね)、いくさに敗れて退却してしまいます。

また馬超の反乱のよって、父の馬騰は処刑されてしまいました。
 
だんだんと勢力を失っていく韓遂。

劉備のもとへ逃げようとも考えましたが、部下の反対にあってこれを断念。
 
そして陽平関の戦い(215年)において曹操がみずから漢中を攻めたとき、韓遂は西平・金城を占拠する麹演《きくえん》・蒋石《しょうせき》の裏切りにあって殺されます。

その首は曹操に送りとどけられました。

演義では曹操の軍門に下って生き残っていましたが、正史のほうでは殺されています。

しかし裏切りや仲たがいと、厳しい西涼の中で七十余まで生きたという韓遂は、それだけでも英雄といえるでしょう。

何晏《かあん》は字を平叔《へいしゅく》といいます。

妹が皇后になったことで大将軍にまでのぼった肉屋、何進《かしん》の孫です。

何進が十常侍《じゅうじょうじ》に殺されたのち、母の尹氏が曹操の側室なったことから、曹操の養子として育てられてきました。

文学を好み、おなじく文学者である王弼《おうひつ》らとともに「玄学《げんがく》」の基礎を築いたといいます。

玄学というのは『老子』や『荘子』などの道教思想を儒教思想と交えて研究する学問で、ありのままに生きるという「無為」を重視しました。

何晏の生きざまはまさに自由奔放。色を好み、「五石散」という覚せい剤を愛用するといった快楽主義者です。

また自己愛が強く、つねに白粉を手放さず、歩くときも自分の影をふりかえって眺めるほどだといいます。
 
曹爽《そうそう》が朝廷で権力を握ると、仲のよかった何晏も政権の中心人物になります。

しかし司馬懿《しばい》のクーデターによって曹爽が殺されると、何晏も連座させられることになりました。

このときに司馬懿は、曹爽派の者たちの裁判をわざと何晏に担当させました。

何晏は殺されたくない一心で処刑者のリストをつくっていきます。

しかし最後に司馬懿は、
「まだ処刑せねばならぬ者の名前が足りないだろう」
といいます。

何晏は自分のことだと気づき、泣く泣く自分の名前を書いて処刑されたといいます。

ただの快楽主義者ではなく、玄学の基礎を築き、完全な形で残る最古の論語注釈書『論語集解』を編纂したことから後世でも評価されている人物です。

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