三国志のこんな人物

演義・正史をまじえ、あまり知られていない、もしくはめだたないけど気になる三国志の人物をピックアップ。三国志がさらに楽しくなります。

カテゴリ: ら行

廖立《りょうりつ》は字を公淵《こうえん》といいます。

三十歳のとき、劉備に長沙太守に抜擢されました。

呉の孫権が荊州にいる諸葛孔明に友好の使者を送って、「政治に役立つ者はだれか」とたずねたとき、孔明は、

「龐統《ほうとう》と廖立です」

と答えました。

なんと孔明から、孔明と並び称される軍師、龐統と同列あつかいされたのです。

ここで調子に乗ってしまったのかもしれません。

こののち呉との関係が悪化し、長沙が攻められたとき、廖立は蜀へ逃げます。

劉備は廖立を重視していたので、とくに咎めることはありませんでした。

のちに劉禅が即位すると、廖立は長水校尉に移されます。高級武官の一つですが、廖立は不満に思っていました。

「自分は諸葛孔明のつぎに才能のある者だ。こんな位にとどまるのはおかしい」

との自負心がありました。

さらには蒋琬《しょうえん》がやってきたときには、関羽や向朗などのをつぎつぎと批判。

これが孔明の耳に入ります。

孔明は劉禅に、

「廖立は尊大で、万人を率いる大将たちを小物と決めつけ、多くの者の名誉を傷つけました。彼は高い位にいるため、並みの人たちはその言葉の真偽を判断できません」

と上奏しました。

これによって廖立は庶民に落とされてしまったのです。

のちに姜維《きょうい》が廖立に会ったときも、昔のままで言動は衰えていなかったとか。

才能はあったのかもしれませんが、おごりたかぶったり他人を貶《けな》したりなどの性格はいつの時代もわざわいを招くものといえそうです。

蜀の羅憲《らけん》は、字を令則《れいそく》といいます。

十三歳のころから文才があることで知られていました。

羅憲は才能だけでなく性格もまじめで、惜しげもなく財を施しに使い、才能のある人物を積極的に求めたといいます。

使いとして呉へおもむいたときも、呉の人たちは羅憲を賞賛しました。

蜀で宦官の黄皓《こうこう》が権力を握ったとき、ほかの者たちは黄皓をおそれて同調していましたが、羅憲だけはそうしませんでした。

これによって羅憲は黄皓に恨まれ、巴東太守に左遷させられてしまいます。

やがて魏(のちの晋)が蜀を攻め、成都が落とされます。

呉は援軍の名目で蜀に兵を動かしましたが、じつのところは蜀の領土を取ろうとしていたのです。

しかし羅憲はそのたくらみを見透かし、巴東をかたく守りました。

これが晋《しん》の司馬炎《しばえん》に評価され、羅憲は以前の任のまま万年亭侯に封じられます。

やがて羅憲は洛陽で入朝し、司馬炎に陳寿《ちんじゅ》を推挙します。

そしてこの陳寿が正史『三国志』を編纂することになります。

羅憲はその後も呉の討伐に功績がありました。

死後は安南将軍の号をおくられたといいます。

李厳《りげん》(李平)は字を正方といいます。

若いころから才能があり、劉表に仕えていました。

曹操が荊州に攻めてきたときは、さっさと蜀へ逃げて劉璋《りゅうしょう》に仕えました。

もうこの時点で保身重視の鱗片があらわれているかと思います。

しかしなまじ才能があるせいか、蜀でももてはやされました。
 
さらに蜀に劉備が攻めてきたとき、劉璋は李厳に軍をあたえてこれを防がせました。

ところが李厳はさっさと劉備に降伏。

基本的に保身しか考えていません。

しかしやはり才能があるため、劉備のもとでも重用されます。

あきらかに魏延よりやばいやつなのですが(魏延はあんがい忠誠を尽くしてますが)、諸葛孔明も李厳を気に入っていました。

劉備の死後、孔明はますます李厳を重用します。

出陣のさいには、あとのことをすべて李厳に取り仕切らせました。

また李厳は名を「李平《りへい》」とあらためました。 

さて、問題が起きたのは北伐のとき。

孔明は祁山《きざん》に陣をはり、李平に兵糧などの輸送をまかせました。

ところが長雨のせいで兵糧輸送がとどこおってしまいました。

そのこと自体は仕方ないのですが、そのあとで李平のとった行動はといえば――。

李平は使者を送って事情を説明し、孔明に軍を退くよういいました。

兵糧がない以上、戦闘はつづけられないので妥当な判断です。

孔明は承諾して軍を退いたところ、李平は、
「えっ、なんで撤退したのですか? 兵糧はちゃんと送ってるから足りてるはずでしょう」
と驚いてみせました。

有能な李平は「自分はちゃんと仕事をしていた。なのに孔明が勝手に軍を退いた」と、孔明に責任を押し付けたのです。

しかも李平はぬかりなく、劉禅(りゅうぜん)に、
「退却したのは、きっと敵をおびきよせるための策でしょう(そうでなければ、兵糧を送っていたのに、退却する理由なんてないから)」
と上奏します。

もはやいい加減を通りこしてサイコパス入っている気もします。

ちなみにサイコパスですが、

・口達者。表面は魅力的。
・自己中心。自尊心が過大。
・罪悪感がない。良心の欠如。平気でうそをつく。冷淡で共感がない。
・自分の行動に対して責任がとれない。
・狡猾。人を操ろうとする。

と、ことごとく当てはまるような。

あとサイコパスは有能な人物も多いので、能力を発揮する場所さえ間違えなければ、自分を大きく見せられるという相乗効果でどんどん出世するタイプでもあります。

李平も主を変えながら出世を繰り返しました。

李平が危険人物だということは、前まえから陳震《ちんしん》が孔明に、「正方(李平)は腹のなかにトゲがあるやつで、郷里の人も近づけなかった」と伝えていました。

孔明は李平の能力を優先させ、「トゲぐらいなら避ければよい」と考えていました。

しかし今回の件で、孔明は陳震の言葉を聞かなかったことを後悔します。

腹立たしいことではありますが、孔明は冷静でした。
 
李厳が北伐のさいに送った自筆の手紙を集めて精査し、矛盾点を整理してから劉禅に提出しました。

「兵糧を送った、送ってない」の水掛け論にならないよう、しっかり証拠を準備したのです。

孔明、有能です。

こうして矛盾点を突きつけられた李平はなにもいいかえすことができなくなり、罪を認めました。

孔明は李平のことを上奏します。

「李平は保身と名誉を大切する者です。

漢王室滅亡の危機により、これまで李平を責めることよりも用いることのほうが重要だと思っていましたが、まさかここまででたらめとは思いもしませんでした。

李平の心は名誉と利益の追求にしかありません。このままですと大きなわざわいを招くことになります。爵位を没収するべきです」

こうして李平は平民に落とされてしまいました。

しかし李平は、孔明がいずれ有能な自分を復職させてくれるのではないかと期待していました。

あまり反省していないようです。

そして孔明が亡くなったとき、その後継者では自分を用いてくれないと嘆き、病死してしまいました。

孔明が亡くなったことを悲しんだのではなく、自分の復職が無理になったことを悲しんだあたり、その自己中心さがうかがえます。
 
才能をとるか、信用をとるか。

組織運営のむずかしいところでもあります。

李恢《りかい》は字を徳昂《とくこう》といい、建寧の人です。

劉備《りゅうび》が劉璋《りゅうしょう》を攻撃したとき、李恢は劉備の勝利を確信し、その元へと赴きました。

劉備は李恢に馬超を味方にするよう命じられ、これを見事こなして信頼を得ます。

反乱を疑われたときも劉備は信じず、事実をはっきりさせたうえで、別駕従事に昇進させました。

諸葛亮が南方平定へ向かったさいには従軍し、大きな功績を残します。

以来、南方で反乱があったときには李恢が赴いて鎮圧し、蛮族たちに金銀などを納入させました。
蜀を陰で支えた功労者ともいえます。

建興9年(231年)、漢中で病死しました。

李恢の息子は李遺(李蔚)といいます。

民間伝承では関羽の娘・関銀屏(関三小姐)の夫となっています。

李譔《りせん》は字を欽仲《きんちゅう》といいます。

昨日紹介した尹黙《いんもく》とは同郷です。

父の李仁《りじん》は尹黙の友人で、ともに荊州の司馬徽《しばき》のもとで学んでいました。

李譔は父の学問を受け継ぎ、さらに尹黙について書物を研究しました。

経書だけでなく算術や占い、医学、兵器まで、その興味は多岐にわたっていたとのことです。

劉禅が劉璿《りゅうせん》を太子に立てたときには、その近侍として仕えます。

劉璿は、幅広い知識を持つ李譔を大変気に入っていました。

しかし李譔は悪ふざけ好きの軽い性格だったので、才能はあったのですが世間では重んじられなかったようです。

景耀年間(258年~263年)に亡くなりました。

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