三国志のこんな人物

演義・正史をまじえ、あまり知られていない、もしくはめだたないけど気になる三国志の人物をピックアップ。三国志がさらに楽しくなります。

カテゴリ:

曹沖《そうちゅう》は字を倉舒《そうじょ》といいます。

曹操の子で、幼いころから聡明であったため、曹操からとくに目をかけられていました。

やさしい性格で、多くの者たちに慕われていたといいます。

曹沖の親友で、おなじく神童と名高い周不疑《しゅうふぎ》という者がおり、曹操はこの二人を可愛がっていました。

名医の華佗《かだ》が曹操に殺されたとき、十三歳の曹沖は嘆きのあまり命を失いました。

曹操は愛する息子が亡くなったことを悲しみます。

そしてあろうことか、周不疑にとばちりがかかります。

「なぜ息子は死んだのに、周不疑はのうのうと生きているのだ」と。

そこで暗殺者を送って周不疑を殺そうとします。
 
曹操の息子、曹丕《そうひ》はこれを知ってあわてて止めようとしますが、「曹沖ならまだしも、おまえでは周不疑の相手はつとまらん」と、けっきょく周不疑を殺してしまいました。

ちなみに中国で曹沖が有名なのは、曹操の子だからというわけではなく、中国ではだれでも知っている童話「曹沖、象を量る」の主人公だからです。

あるとき曹操のもとに一頭の象が送られてきました。

曹操はこの象の重さを量りたかったのですが、だれもその方法がわかりません。

すると幼い曹沖は、カラの舟に象をのせ、どれだけ沈んだか印をつけさせました。

それから象をおろし、こんどは舟がその印まで沈むよう石を積ませました。

あとは石の重さを量って合計すれば象の重さがわかります。

これを見て、まわりのおとなたちは感心したといいます。

陳勰《ちんきょう》(陳協)は字を太和《たいか》といいます。

三国時代の人物ですが三国志には登場せず、その次の時代の晋の史書『晋書』や、地理書『水経注』、宋代の類書『太平御覧』、唐の政書『通典』など各書物にちらほら名前が出てきます(字は『通典』巻二十七)。
 
『水経注』卷十六によれば、陳勰(『水経注』の記述では陳協)は魏の都水使者で、晋の文王(司馬昭)が九龍堰の補修工事をしようとしたときに、阮籍《げんせき》(竹林の七賢のリーダー)が推挙した人物とされています。

その補修工事の手柄で司馬昭に気に入られたようで、『晋書』巻二十四では、魏が蜀を滅ぼしたのち、司馬昭は陳勰に諸葛孔明の軍法を研究するよう命じました。

もとより軍令に通じており、その方面の才能があったようです。

司馬炎が輿に乗って外出するときも、陳勰が白虎旗を持って付きしがたい、その列は整然としていたといいます。
 
孔明の兵法は三国演義の脚色によって神格化された節があり、じっさいはいくさ下手という説までありますが、魏がわざわざ研究させたということは、やはりそれなりにすぐれたものだったのでしょう。

この功績により陳勰は殿中典兵中郎将になり、将軍に移ったといいます。

ただ戦場で活躍したという話はないようで、殿中の護衛官といったところでしょう。

ここで孔明の兵法を使って戦場を駆けめぐっていれば、物語的には面白いことになっていたかもしれません。

余談ですが、「勰」という漢字は日本ではあまり見慣れないかもしれませんが、中国でこの名前はけっこう見かけます(私の知り合いにもいます)。人名でよく使われる漢字です。

前回文欽《ぶんきん》の話をしましたので、今回はその子供たちの文鴦《ぶんおう》と文虎《ぶんこ》をまとめて。

前回の記事を読んでからのほうが理解しやすいかと思います。

文鴦(文俶)と文虎は父とともに魏に仕えていました。

父が毌丘倹《かんきゅうけん》とともに司馬師に対して反乱を起こしたときに、文鴦兄弟はともにたたかいます。

文鴦は父と同様勇猛な将。文鴦に急襲された司馬師は、もとより患いのあった片目がとびだし、のちにそれが原因で亡くなったといいます。

父が司馬師に敗れたのちは、父とともに呉へ下りました。

そして魏で諸葛誕が寿春で反乱を起こしたとき、呉がこれに応じて援軍を送ります。

このときも文鴦兄弟は父とともに寿春へ向かい、諸葛誕とともに城を守りました。が、父と諸葛誕が不和になり、父が殺されてしまいます。

文鴦兄弟は魏に投降。諸葛誕は魏に敗れて殺されました(ここまでは前回参照)。

司馬炎の時代になると、文鴦は異民族の討伐で大功を立て、その名を天下に知らしめます。

しかし司馬炎は文鴦をひと目見て嫌悪を感じ、別件にかこつけて免職してしまいました。

さらには諸葛誕の外孫である司馬繇《しばよう》が、文鴦に謀反の罪を着せます。

こうして文鴦とその三族は皆殺しにされてしまいました。

いっぽうあまりめだない弟の文虎ですが、以降もとくに記述がなく、文鴦が殺されたときに連座して殺されてしまったのかもしれません。

親子ともどもあまりよい最期は迎えられなかったようです。

文欽《ぶんきん》は魏の将で、字を仲若《ちゅうじゃく》といいます。

父親は曹操の代から魏に仕えており、勇猛な武将でした。

ただ気が荒く、礼義をわきまえず、人と衝突を起こしやすい乱暴で残忍な性格だったようで、まわりからはよく思われていませんでした。

幼い曹芳《そうほう》が天子になったころ、曹真《そうしん》の子である曹爽《そうそう》が実権を握りました。
 
臣下から文欽への苦情が出ていたのですが、曹爽は文欽と同郷であったことからそれらを無視し、しかも昇進までさせます。

文欽はますます調子にのって粗暴になりました。

しかし曹爽の死後は、立場が危うくなってきます。

司馬師《しばし》が朝廷で権力を持つと、それが顕著になってきました。
  
文欽は戦功を立てると、捕虜や戦利品を水増しして報告し、恩賞を多くいただくということをしていたのですが、司馬師には通用しません。

そのことから司馬師に恨みを持つようになります(完全に逆恨みですが)。

やがて毌丘倹《かんきゅうけん》とともに太后の詔勅を偽造。司馬師の罪状を書き連ね、各地に檄をとばして反乱を起こします。
 
しかし司馬師はこの反乱を鎮圧し、毌丘倹は民に殺されてしまいます。

もとより将兵たちは文欽たちに脅迫されてしたがっていたので、敗色が濃くなると司馬師に帰順。

文欽はどうにもならず、呉へ逃げこみます。
 
呉は文欽を受け入れましたが、ここでも文欽は他人と衝突し、多くの呉将から嫌われていました。他国でも粗暴な性格は抑えられなかったようです。

魏で諸葛誕《しょかつたん》が司馬昭《しばしょう》に対して反乱を起こすと、呉がこれに応じて諸葛誕に援軍を送ります。

派遣された文欽は魏兵を蹴散らして諸葛誕のいる寿春城に入り、ともに籠城戦をしました。
 
しかし司馬昭の包囲はかたく、ついには呉からの連絡も途絶えます。

文欽は何度も出陣しましたが、そのたびに司馬昭に打ち破られました。

やがて兵糧が尽きてきます。

文欽は北方の者を城から追い出して食糧を節約するよう提案しますが、諸葛誕は承知しません。
 
文欽は魏にいたころから諸葛誕と仲が悪く、この緊急事態においてたがいに猜疑心にかられました。
 
ある日、文欽が諸葛誕に相談しに行ったとき、諸葛誕は文欽を殺してしまいます。

文欽には文鴦《ぶんおう》、文虎《ぶんこ》という子がいて従軍していました。

二人は父が殺されたと聞き、諸葛誕を討とうとしましたが、兵がいうことを聞いてくれません。
 
このまま城にいると、逆に諸葛誕に殺されるかもしれません。

しかたないので二人だけで城外へ逃げ、魏に投降しました。
 
文欽の子を処刑すべきだとの意見もありましたが、「文欽の子ですら殺されない」ことを示せば降伏する者が増えるのではという考えから帰順を許します。
 
やがて諸葛誕は討ち取られ、文鴦と文虎は父の遺体を埋葬することを許されました。
 
文鴦、文虎の兄弟の話はまた後日に。

曹宇《そうう》は曹操の子で、字を彭祖《ほうそ》といいます。

十三歳で亡くなった曹沖《そうちゅう》の同母弟になります。

曹宇は曹叡《そうえい》が天子に就く前から仲が良く、曹叡のよき相談相手になっていました。

燕王といえば以前紹介した公孫淵《こうそんえん》が称していましたが、曹宇もだいたいそのころに曹叡から燕王に封じられています。

曹叡は三十六歳という若さで亡くなりました。

臨終のまぎわ、曹叡は曹宇を大将軍にし、つぎの天子である曹芳《そうほう》を補佐させようとしましたが、謙虚な曹宇はこれを固辞。

ここで前回の記事で登場した劉放《りゅうほう》が、「曹宇は大任が果たせないと自覚している」として、曹宇にかわって曹爽《そうそう》を推挙。

さらにその後見人として司馬懿《しばい》をつけるという、あまり謙虚でない二人組を重要なポストに置きます。

これがのちの、魏のお家騒動につながっていきます。
 
曹叡が亡くなって曹芳の代になると、権力は曹爽へと移っていきます。

曹宇は中央から追われました。

曹髦《そうぼう》の代になると、司馬懿の子である司馬昭《しばしょう》が権力を握ります。

耐えかねた曹髦は司馬昭を討ち取ろうとしますが、返り討ちにあって殺されます。

曹髦の次の天子が、曹宇の子の曹奐《そうかん》です。

しかしもはや就任当初から司馬昭の傀儡でしかありませんでした。

司馬昭が亡くなると、子の司馬炎《しばえん》が禅譲という名目で帝位をゆずるよう曹奐に迫ります。

曹奐は泣く泣く帝位をゆずり、陳留王に格下げされました。

こうして魏は滅亡し、晋が興ったのです。

ちなみに曹宇がいつ亡くなったかは不明ですが、めだたないように生きていたので、ひどい死に方はしなかったのではないかと思われます。

その子の曹奐も、帝位を追われたとはいえ、殺されることなく鄴で暮らしていたようです。

↑このページのトップヘ