三国志のこんな人物

演義・正史をまじえ、あまり知られていない、もしくはめだたないけど気になる三国志の人物をピックアップ。三国志がさらに楽しくなります。

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公孫淵は前回登場した公孫度《こうそんたく》の孫です。
前回を読んでからのほうが今回の内容が理解しやすいかと思います。

建安九年(204年)、遼東に勢力をもった公孫度が亡くなったのち、長男の公孫康《こうそんこう》があとを継ぎました。

また次男の公孫恭《こうそんきょう》は永寧郷侯に任じられます。

袁紹《えんしょう》の子である袁煕《えんき》・袁尚《えんしょう》が曹操に敗れたとき、公孫康をたよって遼東へ逃げました。

しかし公孫康は曹操が攻めてくるのをおそれ、二人を斬首してその首を曹操に送りとどけます。この功績によって左将軍に取り立てられました。

公孫康には公孫晃《こうそんこう》・公孫淵《こうそんえん》の二人の息子がいました。
 
公孫康が亡くなると、弟の公孫恭が政治をとりおこないます。

公孫恭は、兄の長男である公孫晃を魏の都に住まわせ、魏との関係をよくしようとしました。

しかし公孫恭は国を治める能力に欠けていたため、公孫淵がその位を奪い取ってしまいます。

さらには南方に使者を送り、呉と関係を結びました。

孫権からも使者が送られ、公孫淵を「燕王」としました。

驚いたのは、魏の都にいた公孫晃です。

弟が遼東の支配者となり、しかも魏の敵国である呉と手を結んだというのです。

反乱を疑われてもしかたがありません。

公孫晃は責任を逃れようと、
「弟は危険人物です。いずれ反乱するので、いまのうちに討伐すべきです」
と何度も上奏します。

ところが公孫淵は呉からの使者を斬り殺し(呉から送られた財物はそのままふところに)、その首を魏にとどけたので、魏は公孫晃の言葉を聞き入れませんでした。

公孫淵としては、遠くにある呉はいざというときに頼りにならない、けど贈り物は欲しいという判断でしょう。

魏と呉の二大国家を手玉にとる公孫淵はやがて独立。

魏は司馬懿《しばい》に討伐を命じます。
 
すると公孫淵は呉に助けを求めます。

使者を殺しておいてこの面の皮の厚さはなんというか……。
 
呉は助ける義理などあったものではないのですが、魏への牽制として利用しようと、兵を動かします。

しかし間に合わず、公孫淵は殺されてしまいます。
 
さて、魏の都にいた公孫晃ですが、公孫淵の反乱によって投獄されてしまいました。

公孫淵の首が都に到着すると、公孫晃も「兄弟だから」という理由で殺されてしまいます。

弟の討伐をあれだけ魏に唱えていたのに、理不尽な最期です。

こののち、倭国から卑弥呼《ひみこ》の使者が魏に到着するのですが、それはまたべつの話。

 公孫度《こうそんたく》(もしくは「こうそんど」)は字を升済《しょうせい》といい、遼東の人です。

黄巾賊などがはびこった後漢末期、朝鮮半島の北、玄菟《げんと》郡で郡吏をつとめていました。

そこから昇進していって冀州の刺史にまでなりましたが、流言によって罷免されてしまいます。

そののち、同郷の徐栄《じょえい》が董卓《とうたく》に公孫度を推挙し、遼東太守に返り咲きます。

ここから公孫一族の朝鮮北部支配がはじまっていきます。

公孫度は遼東の豪族たちを処罰し、その権力を確固たるものにしました。

また高句麗《こうくり》や烏丸《うがん》討伐をしてその名をひろめていきます。
 
初平元年(190年)、袁紹《えんしょう》を盟主とした反董卓連合が結成されると、この混乱を機にと王位をねらいます。

遼東を支配下に置いたのち、山東の東莱《とうらい》郡をも手に入れて独立。

みずから遼東侯・平州牧を名のりました。

董卓が殺され、曹操が権力を握ったころ、曹操は公孫度に永寧郷侯の印綬をさずけます。

ところが公孫度は、

「永寧郷侯だと? わしは遼東王だ!」

と、曹操がなんぼのもんじゃいといった様子で印綬を武器庫に放り入れました。

公孫度には公孫康《こうそんこう》・公孫恭《こうそんきょう》の二人の息子がいました。

建安九年(二〇四年)に公孫度が亡くなると、長男の公孫康があとを継ぎます。この公孫康の子に公孫淵がいます。

曹操からもらった永寧郷侯の位は次男の公孫恭が継ぎました。

公孫康、公孫淵についても後日書いていきたいと思います。

袁安《えんあん》は字は邵公《しょうこう》といい、袁紹《えんしょう》の祖々々父です。

もはや三国志の時代からだいぶ前の人物ですが、袁紹がスネ夫のごとく、

「ぼくの一族は四代にわたって三公を輩出してきた名門なんだ」

と自慢する理由として紹介しておきます(本当に自慢してたかは知りませんが)。

人名を覚えるより、因果関係を知ったほうが三国志は楽しめると思いますので。

袁安が活躍していた時期は、後漢二代目の天子・明帝のころです。

仏教が伝来し、中国最古の寺ともいわれる洛陽の白馬寺が建立されたのも、このころだといわれています(白馬寺は、日本では北斗神拳発祥の地として知られているようですが)。
 
袁安は学問を好み、祖父について儒学を学んでいました。威厳のある人物だったといいます。

やがて官僚になり、公正無私な政治をおこなったことで名をあげました。
 
明帝の異母兄である楚王・劉英《りゅうえい》が反乱をくわだてて失敗し、封地を取り上げられた翌年、袁安はその楚の地で太守をつとめます。

劉英反乱の余波は大きく、楚郡には連座して投獄させられた者たちが大勢いました。

楚郡にたどり着いた袁安はすぐこの件に着手し、罪が不明瞭な者たち、無実の者たちを調べあげます。

これによって四百人以上もの人たちが救われました。

この功績により袁安は都に呼ばれ、河南尹(河南の長官)になります。

厳格で公正な政治を十年つづけ、皆が認める朝廷の名臣となりました。

明帝が崩御し、章帝《しょうてい》の代になると、袁安は三公の一つ、司空《しくう》に昇進します。次いで司徒《しと》になりました。

三公とは、三つの最高官職です。

時代によって変わるのですが、このころは司徒(行政長)・太尉《たいい》(軍事長)・司空(監察長)です(三公は、のちに曹操が自分に権力を集中させるために廃し、みずから最高位である「丞相《じょうしょう》」につきました)。

さて、袁安には袁敞《えんしょう》という子がいて、司空になります。

また袁安のもう一人の子である袁京《えんきょう》の子・袁湯《えんとう》(袁安の孫)は、司空・司徒・太尉とすべてを歴任しました。

さらに袁湯の子である袁逢《えんほう》(袁術の父)は司空、袁隗《えんかい》(袁紹のおじ)は司徒と、四代で五人の三公を出したことになります。

日本でいえば、三公は総理大臣のようなもので、四代で総理大臣を五人輩出したような感じでしょうか(雑な説明ですが、感覚的にはそんな感じかと)。

自慢したくなるのもわからないでもありません。

袁紹の父といわれる袁成も袁湯の子ですが、袁紹が生まれてまもなく亡くなったといいます。

(まとめ)
1、袁安(司空、司徒)
2、袁敞(司空)
3、袁湯(司空、司徒、太尉)
4、袁逢(司空)、袁隗(司徒)
5、袁紹、袁術

北宮伯玉《ほっきょくはくぎょく》は涼州の羌族の人で、北宮玉ともいいます。

基本的に字は二文字なので、「
玉」は字だとする説もあります。

涼州は異民族のいる地域であり、漢王朝はその反乱に頭を痛めていました。

霊帝(献帝の父)在位の中平元年(一八四)、羌族が湟中(青海省湟水流域)義従の北宮伯玉と李文侯《りぶんこう》を担ぎ上げて反乱を起こします。

北宮伯玉は軍をひきいて金城を攻撃。

涼州の名士である韓《かんやく》と辺《へんいん》を人質に取り、太守の陳懿《ちんい》を殺害しました。

と辺は、当時朝廷で権力のあった何進《かしん》に目をかけられていた人物でもあります。

北宮伯玉は反乱を指揮してもらうために二人を釈放し、軍の指揮権をあずけました。

これによって韓約と辺允は賊徒とみなされ、賞金首になってしまいます。

そこで韓約は韓遂《かんすい》、辺允は辺章《へんしょう》と名を変え、反乱軍を指揮することとなりました。


この韓遂こそが、『三国演義』で、のちに馬超と仲たがいして腕を斬られ、曹操に降伏するあの韓遂です(「この」とかいいながら、ろくなエピソードではありませんが)。

これ以降、北宮伯玉の出番はなくなり、涼州での韓遂の活躍がはじまります。

韓遂は涼州を荒らしまわり、各地の城を焼き討ちしました。
 
漢王朝は韓遂討伐のため、董卓《とうたく》と皇甫嵩《こうほすう》を送ります。

董卓は黄巾賊討伐に失敗して免職になっていたので、このチャンスを生かしたいところ。

しかし韓遂の軍は思ったよりも強く、皇甫嵩は撃ち破られ、つぎに送られた張温《ちょうおん》も敗れてしまいます。

韓遂が有利にたたかいを進めていたのですが、冬になったとき、董卓は韓遂の軍を破って
楡中へ敗走させることに成功。

翌年になると、内輪もめがあったのか、韓遂は北宮伯玉、李文侯、辺章を殺して軍権を一手に担います。
 
北宮伯玉の生涯はこれで終わりです。

のちに韓遂は董卓に撃ち破られ、この功績によって董卓は朝廷に復帰。

以降、董卓は朝廷の権力を手中に収めて献帝を擁立し、恐怖政治をおこなうという、三国志の大筋がはじまります。

 そう考えると、結果的に北宮伯玉が董卓躍進のきっかけをつくったといえるかもしれません。

前回、北宮伯玉《ほっきょくはくぎょく》を書いたので、ついでに韓遂《かんすい》を。

韓遂は字を文約《ぶんやく》といいます。

もとは韓約という名前でしたが、涼州で反乱を起こした北宮伯玉に協力したことで賞金首になり、名を韓遂に変えました。

そののち北宮伯玉らを殺して軍を掌握。ここまでは前回書いたので割愛します。

北宮伯玉ら亡きあと、韓遂は馬騰《ばとう》(馬超の父)と組んで西涼を荒らしまわりましたが、朝廷の派遣した董卓《とうたく》らの軍によって鎮圧されてしまいます。

この功績によって董卓は朝廷で権力を握り、献帝を擁して恐怖政治をおこないました。

董卓が殺されたのち、李傕《りかく》と郭汜《かくし》が代わって実権を握ると、韓遂・馬騰は最初のうちは従っていましたが、やがて馬騰が離反し、韓遂もこれに加わります。

しかし韓遂は馬騰と仲たがいし、たがいに攻撃しあったことで西涼はさらに渾沌とした状況になってしまいました。

ここで曹操が仲裁に入り、両者のたたかいはおさまります。

馬騰は入朝して曹操に仕え、その軍は息子の馬超に引き継がれました。

曹操が張魯《ちょうろ》を攻めようとしたとき、韓遂は自分も攻撃されるのではないかと恐れ、馬超と手を組んで曹操に対抗します。

しかし軍師・賈詡《かく》の離間の計によって馬超と仲たがいし(仲たがいばっかりですね)、いくさに敗れて退却してしまいます。

また馬超の反乱のよって、父の馬騰は処刑されてしまいました。
 
だんだんと勢力を失っていく韓遂。

劉備のもとへ逃げようとも考えましたが、部下の反対にあってこれを断念。
 
そして陽平関の戦い(215年)において曹操がみずから漢中を攻めたとき、韓遂は西平・金城を占拠する麹演《きくえん》・蒋石《しょうせき》の裏切りにあって殺されます。

その首は曹操に送りとどけられました。

演義では曹操の軍門に下って生き残っていましたが、正史のほうでは殺されています。

しかし裏切りや仲たがいと、厳しい西涼の中で七十余まで生きたという韓遂は、それだけでも英雄といえるでしょう。

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